しかし酒乱の言動で会社を辞職、その後、友人の仲介で朝鮮火災海上の支配人を勤めるも同じく酒乱のため退職する。
放哉は俳誌「層雲」の有力な俳人。しかし生活力は無く、最高学府を出て、一流会社の要職を経験も職を追われ、妻にも去られ、落魄して小豆島まで流れた。
俳句の才の驕りとひがみの感情の間から放哉の孤独感が見えてくる。親族への不信感の中で、最後は寂しく、隣家の年老いた漁師とその妻に看取られ、死亡する。大正15年4月7日、42歳だった。
種田山頭火は放哉より3歳年上だが、放哉を尊敬し、小豆島の放哉の墓を2回も訪れている。
山頭火の句は教科書にも出てくる。放哉の句は失敗の人生から教科書には載り難い。だが死を直前とした孤独感、生命への凄みは感動的である。
代表的な句。
「咳をしても一人」
「入れものがない、両手でうける」
「足のうら洗えば白くなる」
死を直前にした句。
「うつろの心に、眼が二つあいている」
「肉がやせてくる、太い骨である」
「これでもう外に動かないでも死なれる」
最期の句。
「はるの山のうしろからけむりが出だした」
小説の書名となった句。
「障子開けておく、海も暮れきる」